前略
暑くてたまらない夏がようやく終わり、涼しい夜に鳴く鈴虫の声にほっとしています。
お元気にされていますでしょうか。私は2015年から鳥取県の智頭町に移り、野生の菌にお伺いを立てながら、パンやビールをつくる「タルマーリー」をなんとか続けています。ここは中国山地に抱かれた森の町。日本海から南へ車で約1時間、岡山県と兵庫県の県境に位置します。
私も50代になり、最近は健康のためにも、夜に妻と散歩をしています。山に囲まれた谷あいの空はこじんまりしていますが、私たちが生まれ育った東京の空ではほとんど見えなかった星が、ここでは本当にたくさん輝いています。
あなたは近頃、星になにを読んでおられますか。
私は先日、広い空が見たいと思って白兎海岸に行きました。「因幡の白兎」はご存じですよね?大国主命が出雲国を作るときに兎を助けたという、あの「古事記」に出てくるお話の舞台が、鳥取の白兎海岸です。
波の音を聞きながら見上げた満天の星もそれぞれ、地球からの距離が違います。星までの距離をあらわす「光年」という単位は、その光が地球まで届くのにかかる時間です。例えば1光年なら、その星が1年前に放った光が私たちの目に飛び込んでくるということです。
生意気を言いましたが、私は星に詳しいわけでもなく、オリオン座くらいしか知りません。オリオン座の3つ星の下には、縦に並ぶ小三つ星があり、その真ん中の星をオリオン大星雲と呼ぶそうです。そこは地球から約1300光年。昔の人はその小三つ星を、狩人オリオンが腰に下げている短剣が光っているのだと捉えたことに驚きます。僅かな光を繋いで具体的な造形を想像する能力とともに、目の悪い私は、昔の人の視力にも驚きます。それに、空気は今よりもっと澄みきっていたのでしょう。古代はどんな環境で、人々はどんな能力を持ち、どんな暮らしをしていたのでしょう?
それを紐解く日本最古の文献が、約1300年前に編纂された「古事記」です。ちなみにその中に出てくる少名毘古那は、温泉や酒造の神ですが、1300年前も人々は温泉に入り、お酒を楽しんでいたのですね。
ところで私の住所は八頭郡智頭町です。八つの頭といえば、ヤマタノオロチですよね。素戔嗚は大蛇にお酒を飲ませて酔っぱらったところをやっつけました。そして同時期に書かれた「播磨国風土記」には、神様にお供えしたお米が濡れて、そこに麹がついて甘くなったので、それでお酒を作ったという記述があるようです。
タルマーリーでは「和食パン」を作っていますが、それは酒種、つまり日本酒で発酵させたものです。私はずっと酒種を作ってきたので、どうしてもお酒の歴史に興味が湧くのです。
「播磨国風土記」の記述から、昔はただお米を放っておくだけで、つまり菌を含む自然環境がおのずとお酒を作ってくれたことがわかります。それは昔のきれいな大気のもとだから起きたことでしょう。
実は私も、昔の方法でお酒を作りたいと思って、野生の菌だけで発酵させるというやり方を試行錯誤してきました。しかし現代では簡単にはいきません。なぜなら自然環境が汚れていると、発酵に関わる菌だけでなく、汚れを分解しようとする菌も一緒に降りて来てしまうからです。発酵菌の中でも、特に麹は環境に敏感だとわかったから、私は2回も店を移転して、より自然豊かな智頭町に辿り着きました。
しかしここで8年実践してわかったのは、この町でも純粋に麴だけが降りてくるのは3〜4年に1回くらいということです。大気汚染などが原因で、麴以外の菌が増えてしまうのです。菌は目に見えないのですが、発酵を観察していると、確かにそこに存在し、何かを伝えようとしています。
菌の強いメッセージは、腐敗として現れます。腐敗の原因は雑菌ですが、私は雑菌そのものよりも、雑菌が増える環境に問題があると考えます。材料が悪かったり、管理が悪かったりして、空気が澱んでいると腐るのです。だからうまく発酵させるためには、腐りにくい無肥料・無農薬栽培の材料を使い、職人の身心を整え、発酵をとりまく自然環境すべてを整える必要があります。
古代は今のように肥料や農薬を使わないですから、お供えしたお米にもおのずと麴がやってきたのでしょう。その頃と同じ技術で発酵食品を作るには、環境をきれいに整えるよりほかに方法はないのです。
「そうは言っても、都会でもどこでも発酵食品は作っているでしょ」と思うでしょうね、確かにその通りです。現在はほぼすべての発酵食品に野生の菌ではなく、純粋培養菌が使われています。この技術は明治初期に欧州から伝わりました。家庭でパンを作るときにはイーストを買ってきますよね。発酵力の強い菌だけをぎゅっと凝縮した状態で販売されているのがイースト、つまり純粋培養菌です。
どんな環境でもどんな材料を使ってもうまく発酵させてくれるこの技術は、科学の勝利です。でも私はむしろ科学の思い上がりじゃないかと思うのです。
純粋培養菌によって発酵を自然環境から切り離せるということは、環境破壊にも繋がっていきました。どんな農産物でも発酵するから、肥料や農薬を使って効率よく栽培した材料を使った方がお得です。利益を追求するために、化石燃料を使って世界中から運んできた安い農産物を使います。そして腐敗の原因を雑菌だけに見出して、殺菌するというのが常識になっています。
一方で私は昔の発酵を通じて、世界が単純な因果関係で成り立つわけではないと気づきました。だから、菌という生命と自然環境とを切り離す考え方は、科学の思い上がりと感じるのです。
古代の人々が満点の星から星座を作ったように、私は無数の菌から発酵食品を作っています。星や菌は無秩序に存在しているように見えるかもしれませんが、世界はすべて繋がっています。自然環境がきれいに保たれてさえいれば、私たちはずっとこれからも美しい物語を創造していけるのではないかと思っています。
草々