近頃、星になにを読んでおられますか。

そんなことをお尋ねしてみたものの、幼い頃の私は満天の星空を見つめるたび恐怖に駆られる子どもでした。いまとなってはうまく言い表すことが難しいのですが、広すぎて深すぎて寄る辺なく、眺めているうちに気が遠くなってくると言いましょうか、一種の離人感にとらわれていたのだと思います。私が生まれ育ったのは鳥取県米子市ですが、ご存じのとおり、鳥取の星空はそれほど広くて深いものでした。

一七世紀フランスの哲学者・数学者・神学者ブレーズ・パスカルは、「この無限の空間の永遠の沈黙は私を恐怖させる」と述べたそうです(『パンセ』前田陽一・由木康訳、中公文庫、第二〇六節)。私はパスカルのような天才児でなかったどころかクラスの劣等生でしたが、ちっぽけな人間が雄大な宇宙空間に直面したときに感じる原初的な恐怖を子どもなりに感じ取っていたのかもしれません。

さて、そんな子どもだった私が星空をおそろしく感じなくなったきっかけがあります。これはもうはっきりと覚えています。小学四年生の夏休み、米子市道笑町の近所に住む西尾くんの家に泊まった夜のことでした。西尾くんのお父上が警察勤めで(刑事!)、夏休みの自由研究として警察官舎の庭を借りて星座観察をすることになったのです。

星座表を手に西尾くんとふたりで懸命に星を読む作業を続けるうちに、星空が全然おそろしくなくなっていることに気づきました。考えてみたら当然のことではありますが、夜空の星座がまさに星座表のとおりに並んでいることに驚いて、気がついたら星読みに夢中になっていたのです。

科学を知らず、知的にも心的にも未発達であった私にとって、世界とはわけのわからない混沌そのものでした。人間の知識がこのように自然とぴったり一致することが信じられず、星座表と本物の星座との照合に心底驚いたのでした。それ以降、星空は私にとって美しい書物のような存在になった次第です(これを機に天文学者や物理学者を志すようになったなら美しい物語になるのですが、残念ながらすぐに野球少年に戻ってしまいました)。

星空に関してもうひとつ、大人になってから気づいたことがあります。それは、星空を眺めていると、人との間の沈黙がおそろしくなくなるということです。先にパスカルの「無限の空間の永遠の沈黙は私を恐怖させる」という言葉を引きました。子ども時代の私が夜空の沈黙を恐れていたとすれば、大人になってからの私が恐怖を覚えるのは、ほかならぬ人間の沈黙です。人との間の気まずい沈黙。恐怖の対象が自然から人間に変わったと言えばよいでしょうか。

それが、いっしょに星空を眺めていれば、どんな話でもできるし、それどころか、なにも話さなくても、いっこうに気になりません。間が持つというのでしょうか、人間どうしが直接対面するよりもずっと話しやすいし、なんならなにも話さなくてもいい。夜空に広がる星空をいっしょに眺めているだけで心地よいのです。キャンプでの語らいにおけるキャンプファイヤーのような役割を星空が果たしてくれるのだと思います。しかも、星空はものすごく遠い。米子と東京(現在の私の住処)で同じ星座を眺めながら長電話をすることもできるでしょう。

つい先日も星空を眺める機会がありました。今年の夏休み、卓球の技術指導をしている女子中高生の夏合宿に帯同して千葉の南房総に行ってきたのです。「星空保護区」認定に向けて活動している南房総市の星空もなかなかのもので、普段ならどう考えても話題の糸口さえつかめない女子中高生が相手でも、沈黙がまったくおそろしくなかった次第です。我々と星空の間を満たす沈黙に比べれば、隣の人との間にある沈黙など取るに足らないものです。

そんなわけで、あらためてお尋ねしたく思います。

近頃、星になにを読んでおられますか。
星空の下で、誰とどんな時間をすごされましたか。昔の思い出でも最近の出来事でもけっこうです。お聞かせいただけましたらさいわいです。